武将について語りましょう!【鎌倉武将(御家人) 001 愛甲季隆】
今回ご紹介する武将は、神奈川県厚木市が誇る鎌倉時代の名将、愛甲三郎季隆でございます。記事はブログと被りますがご了承くださ い。
愛甲三郎季隆(あいこうさぶろうすえたか)生年不明-没年1213年5月24日))
鎌倉幕府の御家人で弓の名手として活躍、武蔵七党の横山党の一族山口五郎季兼の三男。鎌倉幕府3代目まで(頼朝、頼家、実朝 )に遣える縁切り橋の伝説の一件から和田合戦に和田軍に随従(横山一党は、和田家とは婚姻関係にあるため)して討死。
~愛甲三郎季隆の生涯~
愛甲の庄(愛川郡一部と大住郡北部)を統治
源平合戦開幕当初の動き不明。後に源頼朝軍の随従
弓矢に優れ、将軍随兵、正月の御的始めで射手を務める。
1193年5月富士の巻狩り頼朝の嫡男頼家が初めて鹿を射止めた際に補佐を務める。曽我兄弟仇討ち事件で負傷
1205年 畠山重忠の乱 幕府の討伐軍に随従。二俣川の戦いで総大将畠山重忠に矢を命中させる。畠山重忠を討ち取り幕府軍大 将、北条義時に献上。
1213年 和田合戦 和田軍に随従。由比ヶ浜にて討死に。
縁切り橋の伝説
源頼朝の側室丹後の局が安産祈願の為に日向薬師参拝をした時、愛甲三郎季隆が案内人を務めた。
征夷大将軍、源頼朝の正室である北条政子は、丹後の局を嫌っていたとされる。
征夷大将軍である源頼朝の死後、征夷大将軍に就任した頼朝の子や弟を北条家が謀殺したとすれば、鎌倉幕府の政権は、源家から北 条家へと移行することになる、丹後の局が源家の子隠し子を出産したとあっては北条政権が不成立となるのを恐れたためか
一千騎の軍勢を差し向け、丹後の局をかくまっていた愛甲三郎季隆の館を焼き討ちする。知らせを受けた愛甲三郎季隆が館が見え る橋まで大急ぎで戻り、その光景を目の当たりにし北条氏・鎌倉幕府との縁を切ったといわれる。
2012年02月24日 22:03 by てっちゃん
武蔵七党は横山党(先祖:小野氏)、横山党に属す猪俣党、野与党(先祖:平基宗)、村山党(先祖:平基宗)、児玉党(先祖:有道 氏など)西党(先祖:日奉氏)、丹党(先祖:丹治氏)
みたいですな
2012年02月29日 17:54 by てっちゃん
さぁ、深くは分りませんな
一応文に書いてある通り、武蔵七党の愛甲三郎らが所属してる横山党は和田家と婚姻関係にあります。義理からしても親組織でも ある横山党に加勢するでしょう。
血筋的には源平どちらに属するともいいがたいのかもしれませんね。
でもまぁ、「愛甲」の姓を持つ方が、数年前に愛甲三郎納涼祭りを主催する愛甲石田商店街に手紙をくれたという話をききました な。
やはり、落ち延びられた愛甲の一族とか
でも、自分の屋敷を留守中に勝手に北条家の手勢に焼き討ちにされては溜まったもんじゃないですよ。
調べられる範囲で見ます
2012年02月29日 17:30 by てっちゃん
いきなり鎌倉時代の武将ですか~
それも弓の名手とは、ててててっちゃんの弓道も関係ありかな(*^_^*)
愛甲三郎季隆のことはまったく知らなかったですね。
北条は御家人と言っても元をただせば平氏の流れをくむ御家人ですよね。
和田や三浦一族は元々源氏の御家人だから、北条とは合うはずがないからいずれは戦になったと思うけど、愛甲は源氏の流れをくむ 御家人だったのでしょうか?
それとも関東の国人領主だったのかな。
関東・甲信で残った源氏一族と言えば、新田源氏と足利源氏、駿河には今川源氏、甲斐武田源氏くらいでしょう。
愛甲氏の位置づけはわかりますか?
2012年02月26日 23:50 by まり姫&頑固じじい
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