魚 -fish-
雷魚
スケキヨの指の先は、対岸の水路の青い水草の揺らめく水の中を指していた。そこで青黒い影がゆっくり動いていた。注意しなく ては見落としてしまうくらい僅かに。私は息を止めた。それは、私の背丈ほどはありそうな大きな魚だった。糸を引くように、黒い体 の表面で藻や水草が揺れていた。随分年をとっているように見える。しばらくすると魚は、緩慢な動きで音も無くこちらの方に水の中 を滑ってきた。青黒い影を背負って。私たちは水面に突き出た小さな桟橋の上にしゃがんでいた。魚はその板組みの下に潜り込んだ。 朽ちかけた木の隙間から、その大きな黒い体がちらちらと見える。重く冷たい空気が足元から這い上がってきた気がして私はすくんだ 。スケキヨを見ると興奮した熱っぽい眼差しで、足元を覗き込んでいた。再び視線を魚に戻す。ちらりと魚の目が見えたような気がし た。灰色の、生命を感じさせない、堅く強張った目だった。そのぽっかりとした暗闇は私の思考を痺れさせた。根源的な黒い恐怖が私 をすっぽりと覆っていく。
どのくらい時間が経ったのか、魚は私たちの足元からゆらりと出ていって水草の生い茂る深い流れに消えていった。
「ちゃんと見た?」
スケキヨが立ち上がって言った。私は呆然と頷いた。あんな大きな魚をこんなに近くで見たのは初めてだった。ぬらりとした妖気 が、まだ水場のあちこちに残っているような気がした。ぞくりと背筋が寒くなる程の。
「毎朝、この誰もいない時間にここを通るんだ。あれがきっと雷魚なんだよ。白亜に一度見せたかった。美しいよね」
「美しい? 恐ろしいではなく?」
私の問いかけにスケキヨは目を細めた。私を立ち上がらせて顔を覗き込んだ。
「白亜、恐ろしいのと美しいのは僕の中では同じだよ。雷も嵐も雷魚も赤い血も。そういうものにしか僕の心は震えない。どちらか しかないとしたら、それは偽物だ。恐ろしさと美しさを兼ね備えているものにしか価値は無いよ。僕はそう思っている。白亜、顔色が 悪いよ。魚の目を覗いてしまったのだね」
『魚神 -iogami-』 千早 茜
幻想・怪奇の魚たちの標本函トピックです。
2010年01月13日 19:21 by progfanta
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