~ 意識的な生活を 送ってみる ~
~ 意識的な生活を 送ってみる ~
一歩立ち止まって、
・今どこに居るのか?
・なにをしているのか?
・なにをしようとしているのか?
そのことに意識を向けてみることで、意識的な生活はなされてゆきます。
とても簡単なことですね!
これだけでも、随分と、今までとは違った生活になってゆきます。
正確に観ることは、ジャッジせず、
心の動きに左右されずに、客観的に物事を観ることに繋がってゆきます。
このことが出来るようになったら、
次に、呼吸に 意識を向けてゆく 練習をしてみてください。
浅い呼吸から、深い呼吸に変ってゆく様子、
深い呼吸になったときの、心の様子を観る練習を行ってゆきます。
対外的なものから、内に意識を向けてゆく練習に繋がってゆきます。
また、呼吸が整って、心が鎮まってきたところから、もう一度、
・今どこに居るのか?
・なにをしているのか?
・なにをしようとしているのか?
立ち止まって、振り返る ( 止まる・観る ) を行ってみてください。
2011年10月08日 17:20 by ひろみち
私たちの心は、外で 起きていることに とても敏感です。
外で 起きていることによって、
内が 騒ぎ始めたり、安らいだりもしますので、
あたかも 外が、そうしているように 感じてしまうのです。
しかし、それは、外で 起きているものを 観て、
心が、そのように 捉えてしまっていることなのです。
自分の 思うが侭に ならないとき・・・
「 神様の バカヤロー 」 なんて いう人も いらっしゃいます。
でも、神様は、はじめから なにもしてくれていません・・・
そうなれば 良いと、勝手に 思い描き、
そうしようと、勝手に 動き回り、誰かのせいにして、
そのように、ならなかった 自身を 省みようとはしませんので、
また、同じようなことを、なんども 繰り返してしまいます・・・
身体を 観るという 鍛錬は、
意識を 外ではなく、内に向ける 練習をすることなのです。
2011年10月29日 11:39 by ひろみち
” 煩悩を捨てる ” などといいますが、
煩悩を捨てたり、消そうと想っても、そう簡単に出来るわけではありません。
こだわっているものや、わだかまりが、なんであるのかに気付き、
細かく分析してみることで、理解が深まってゆくとこだわらなくなってゆきます。
そのこだわりや、わだかまりが、心の中にあるもので、
現状のいま此処という真実の実在には存在していないことに気が付くでしょう。
無いことに気付いたら、
こんどは、無い処から、心の中にあるものを観てゆくことが大切です。
私たちは、マインドという色眼鏡で観ている、
または、空想や 妄想している為に、物事を正確には捉えていません。
例えば、富士山を見たとき、「大きいな~」と感じても、
写真で写したものを見てみると、とても小さく感じてしまいます。
どんなに引き伸ばして見ても、実際に見たときの感動には及びません。
客観的に観るといっても、
習慣や 観念が、こびりついてしまっているので、
そう簡単には、あるがままには、なれないものなのです。
” あるがまま ” になったつもりになることはできるのですが・・・
つもりは、所詮つもりでしかないのです・・・
2011年10月08日 17:35 by ひろみち
・止まるとは、心を鎮めること
・観るとは、客観的に観察するということ
観る ( 客観的に観察する ) とは、なにを観察するのか?というと・・・
・心
・身体
・・・のことなのです。
はじめから 心を観ようとすれば、
心の癖 ( 好悪をつけたり、都合よく解釈したり ) によって、
否定や 拒絶が生じてしまい、客観的に観察するということが難しいのです。
ですから、まずは、身体や 呼吸を観察するという 練習をしてゆきましょう。
身体に意識を向けること、呼吸に意識を向けてゆくことは、
対外的なものに囚われずに、内に意識を向けてゆく練習になります。
いま此処を観ることによって、
いま此処には無いものと、あるものの分別をつけることができます。
過去や 未来は、いま此処には存在していませんが、
私たちの心は、多くの場合、不安・恐怖・期待・希望・願望といった
そこにはないものに振り回されてしまっているので、現状に気付くことなく、
いま此処という真実の実在に辿り着くことが難しくなってしまっているのです。
無いものを求め、あるものに気付かず、
無いものに 不安や 恐怖を感じていることにも気付かず、
様々な想いに操られていることさえも、なかなか気付くことはないのです。
2011年10月08日 17:32 by ひろみち
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